奥运会马拉松最慢记录创造者
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来源オリンピックの男子マラソンでもっとも遅かった公式記録
译者南岳
オリンピックの男子マラソンでもっとも遅かった公式記録は、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。日本人の金栗四三氏が記録したものです。
奥运会男子马拉松比赛最慢的官方记录为54年8个月6天5小时32分20秒,是日本运动员金栗四三创造的。
なぜそんなあり得ない記録になったのかは後述するとして、一般にスポーツの最低記録や珍記録といったものは恥ずかしいことが多いものですが、この記録が生まれた背景を見ていくと、実に誇らしく、粋な記録だということがわかります。
为什么这一纪录慢的难以置信?容我下面详述。一般情况谈到体育的最低纪录、稀奇纪录多数人会感到羞愧。观察这一纪录诞生的背景,就会觉得它的确是值得自豪、出色的纪录。
金栗四三氏が出場したのは明治晩年にあたる1912年のストックホルム・オリンピック。これが日本のオリンピック初参加で、前年の国内予選では30分近くも世界記録を更新するという、名誉と期待を背負ったものでした。
金栗四三参赛是相当于明治末期的1912年斯德哥尔摩奥运会。那是日本第一次参加奥运会,他在前一年的国内预选赛上刷新了世界纪录近30分钟,身负祖国名誉和众人期待去参加比赛。
ところが、北欧の大会にもかかわらず異常気象のため40度近い猛暑に襲われ、68人中34人が棄権するというサバイバルレースになってしまい、彼もまた日射病で棄権してしまいます。しかしながら、連絡ミスによって「棄権」の報告が伝わらずに、「行方不明」という扱いになりました。
然而尽管是在北欧比赛,因气候异常遭受近40度的酷暑,68名运动员中34人宣布弃权,最终成了一场生存的竞技,金栗也中暑弃权。因联络失误,举办方没有接到“弃权”告知,最后以“去向不明”处理。
そして彼はその後、日本のマラソンの発展に尽力します。
其后,他为日本的马拉松事业发展竭尽全力。
ストックホルムでの敗因を分析、考え出した真夏の房総海岸での「耐熱練習」、心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング、そして、孤独な長距離の練習をチームでやろうという箱根駅伝の企画、さらには、女子体育の奨励など、現在のマラソン界につながるあらゆる試みが金栗四三の発案でなされました。
分析斯德哥尔摩的失败原因,他设计出在盛夏房总海岸的耐热练习、强化心肺功能的攀登富士山比赛、高山训练,策划出以团队形式进行孤独的长距离训练的箱根长跑接力。还有对女子体育的奖励等涉及现今马拉松的各种尝试都源自金栗四三思想。
その後マラソンの父と称えられた彼の、唯一心残りだったことはオリンピックの棄権でしたが、晩年にオリンピック委員会からスウェーデン・オリンピック記念行事の招待が届きます。
他被大家誉为马拉松之父,唯一心感遗憾的就是奥运会的弃权。晚年他受邀参加瑞典奥运会纪念活动。
「あなたはマラソン競技で行方不明になったままなので、ゴールしに来てください。」
“你在马拉松比赛中去向不明直至今日,这次就向终点冲刺吧。”
オリンピックの記録には「棄権」はあっても、「行方不明」は無いための処置でした。その粋なはからいに応え、スーツ、ネクタイ、コートといういでたちでゴールを果たします。75歳でした。
奥运会的参赛结果有弃权,但没有失踪这一项。他响应主人的安排,身着西装、领带、大衣跑到了终点,时年75岁。
54年8ヶ月6日5時間32分20秒3でゴールを果たした瞬間、「日本の金栗がただ今ゴール。タイムは55年…。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました」とアナウンスされた。これに答えて四三は「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とユーモアあふれるスピーチをした。
花费了54年8个月5小时32分20秒3到达终点的瞬间,播音员宣布:“日本金栗现在抵达终点,时间55年... ...至此第五届斯德哥尔摩奥运会的全部比赛日程结束。”金栗接着充满幽默的说:“里程太漫长了。其间我都有了5个孙子。”
日本のマラソンが発展した礎や、正月の風物詩である箱根駅伝などを作り上げた偉大な人物の、破られることの無い誇らしい記録ではないでしょうか。
这是日本马拉松发展的奠基人、创办给新年添彩的箱根长跑接力等伟大人物,创造的无人打破的骄傲纪录。
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