日本文化との出逢いが僕の人生を変えた理由
僕はどのように日本文化を発見したのか、どうやって日本語を勉強したのか、なぜ日本で働き住むようになったのかを今日紹介したいと思います。
どこで始まればいいのか悩みましたけど、「第一日目」からでもいいかなと思いました。この記事を幾つかのセクションに分けてみました。
- 一日目
- どうやって日本文化と出逢ったのか
- どのように日本語を独学したのか
- どうやってお金を稼いだのか
- 人生の初めての目標 : ジャパニーズドリーム
- 妻とどこでどのように出逢ったのか
- 日本航空時代 : 初めてサラリーマンになった
- どうやって日本に辿り着いたのか
- キャリアをどのように日本でスタートしたのか
- ぬるま湯に浸かれると危険
- アマゾン時代
- どのようにアフィリエイト収入を稼いだのか
- なぜシアトルに引っ越したのか
- 副業は今の会社の始まり
第一日目
僕はロンドンのイーストエンドで生まれ育った。両親はマレーシア人の華僑だ。僕が幼かった時は、両親は一日中懸命に働いていてとても大変な時期だった。親はやりくりするのに忙しかったので、僕をいろんな家に里子に出すことになり、僕は子供時代のほとんどをそこで過ごした。それらの家ではひどい扱いを受けていたこともあったのだが、両親にはお金とか他の問題があるのを知っていたので、僕は両親に何も言うことができなかった。結局、私は白人の、黒人の、それからインド系の家庭で、永遠に続くとも思われるくらい長い時間を過ごすことになった。
不運なことに、ある里親の家では、里子を虐めるのが得意で、彼らの子供達が僕のことをずっといじめている間に、僕の服を奪って自分達のものにしてしまうような人たちだった。彼らの家に自分がいないほうがいいような気分によくさせられたものだ。とある晩に帰宅した時、玄関のドアが開けっ放しになっていたことをおぼえている。家に入ってみると、めちゃくちゃに散らかっていて、空き巣に入られたんだと分かった。怖くなって泣き始めたら、その里親の家の年長の子供に「なんでお前が泣いているんだ!?ここはお前の家でもないくせに!」と怒鳴られた。
他の記憶に残っていることは、目に赤い斑点ができるまで首を絞められたことだ。次の日、学校でそのことを聞かれたときは、コップの中の飲み物がすべって目に入ったと言うくらいしか思いつかなかった。
もうひとつの忘れられない出来事は、ゴム製のおもちゃのレーストラックでぶたれたことだ。その後、鮮やかな赤色の痣が残った。殴られた後に鏡を見て、緑のジャンパーを着ていた自分がどんな風に見えたのか、はっきりと憶えている。
唯一、普通の生活に戻れるのは両親と過ごせる数少ない週末だった。父が週末に僕を迎えに来て、そのまま父と過ごすか、母の元に連れて行ってくれた。だけど時々父は仕事に忙殺され、僕を迎えに来れないこともあった。そんな時、里親から父からかかってきた電話を渡され、そのことを聞かされた。電話を切ったあと、僕はドアの上の小さな窓から外を眺めながら、階段に座り込んで泣いていた。僕は学校に行くとき以外、一人で外に出ることを許されていなかった。だから僕はベッド付の小さな倉庫みたいな自分の部屋に戻ることしかできなかった。僕の唯一の友達だったバック・ロジャーズが彼の信用できるロボットであるトワイジーと一緒に僕を訪ねに来てくれたらなぁなんて夢をよく見ていたものだった。
僕の子供時代は、学校→帰宅→食事→時々テレビ見る→自分の部屋に行く、の繰り返しだった。
僕がテレビで見た初めての日本アニメは、イギリスではG-Forceと呼ばれていたガッチャマンだ。特にそのアニメが日本のものだとは知らなかったし、そのことはその時はそれほど重要なことではなかった。
上の写真は僕がある里親の元で暮らしていた時のものだ。家でも学校でも楽しくは過ごしていなかった。常にいじめられていた僕のその頃の記憶といえば、砂利の上を引きずられたり、不良に殴られたり、持ち物を燃やされたり、フットボールの時は常に顔を狙われたりしたことだ。学校の校庭でデカい奴に「もし俺がこのバットでお前の頭を殴って殺せば、俺は刑務所行きだろうが、その価値はあるぜ。」と脅されたこともある。そんなやつに自分を殴るようにお願いして、彼の手下にしてもらうこともあった。
脳はその記憶を長く保持するために化学物質を放出するので感情に結び付けられた記憶というのは思い出しやすいものである。だから人間は喜び、悲しみ、恥ずかしかった時のことなどを簡単に思い出すことができる。
もしあなたが自分の子供時代を振り返ったら、自分の記憶の多くがそういった感情がミックスしたものであることに気づくと思う。僕の子供時代の記憶には、まだ両親と住んでいた時のことを除いて、幸せだった記憶というものがない。それはクリスマスの時に、家のリビングのクリスマスツリーの前に、家族みんなで座っていたことだ。
他の子供達が子供のときに何を経験するのかを考え始めるまで、僕は自分の子供時代のことを思い出すときは、とても暗い気分になっていたものだった。しかし彼らに比べれば、僕の子供時代もましだったのだろう。
僕は学期を通して、完全にやる気をなくし、自分が人生で何をやりたいのか全くわからなかった。人生の目標も勉強の情熱もなく、学校の授業での成績は散々で、DやEばかり取っていた。
人生のどの時点だったかは憶えてないけれど、僕は再び両親と一緒に暮らし始めた。僕が引っ越すまで、2,3年は父と、その後は母と一緒に住んでいた。上の写真は去年母と撮った。僕は母がもう公立住宅に住まなくていいように、どこかに家を買ってあげられるようになりたい。
これはハックニーにある母の家だ。ここでの暮らしはすっっっっごく憂鬱だったよ。隣人が毎日一晩中レゲエをやかましく流していたせいで、床板が震えていた。
母は3回ハックニーで引ったくりにあったことがある。一度は、誰かが母の頭を殴り、気を失わせた。僕が知らせを受けてすぐに病院に駆け込んだら、母の顔は乾いた血にまみれ、母がバッグを盗まれないようにと抱えていた腕はあざだらけになっていた。
自分と同じくカイリー・ミノーグが大好きな仲間達と会うことで、僕は学校の外で本当の友人を作り始めた。BBCやカイリーの録音スタジオのStock AitkenとWatermanの外で待っているときによく友達ができた。僕のファン活動の写真はカイリー・ミノーグの記事でもっと見れるよ。
そしてこの写真は当時の僕の部屋の写真だ。カイリーが載っているほぼ全ての雑誌と新聞を買って、彼女の写真で壁を覆い尽くした。
日本と初めての出逢い
輸入された日本の16bitゲーム機であるセガ・メガドライブをGETした。メガドライブゲームのことをもっと知りたくて、ロンドンで日本の本屋で雑誌を読んで情報を集めた。
当時はインターネットなんてなかったから、そのような店は僕にとって重宝だった。漫画やアニメ、アイドルなどの日本文化のことについて、訪れる度に発見できる場所だ。
壁いっぱいのカイリーのポスターとメガドライブのゲームの山が写っているこの写真を見て分かるように「カイリー」一色から「日本」へと僕の興味は移っていったのはこの頃だった。テレビにちょうどマクロスが映っているのが分かると思う。これは僕がロンドンのチャイナタウンで見つけてきた広東語版のものだ。
日本のものだということを知ったうえでアニメを見たのはこれが初めてだった。そのアニメーションのクオリティー、ストーリー、BGM、メカ、それとかわいい女の子たちに圧倒され、僕はアニメもっと見たくなった。
この時お金を稼ぐために、雑誌から切り抜いた写真をラミ加工したカイリーのカードを作って売っていた。
どのように日本語を独学し始めたのか
日本の文化は僕を魅了し、そして、今まで人生で感じたことがないような情熱と欲望が僕の中に生まれたことを気づかせてくれた。僕は日本文化についての知識をより深めたくなり、そのためには日本語を理解できるようになる必要があると感じ、独学で日本語の勉強を始めることに決めた。
僕は幼い頃に中国語学校に通う機会なんてなかったので、日本語の勉強はゼロから始める必要があった。辞書や教科書を手にいれ、ほとんどの基本的な文法は学ぶことができた。
「らんま1/2」や「クレヨンしんちゃん」などのマンガからたくさんの日本語を学び始めた。電車の中でマンガを読んでいて意味が分からない単語に遭遇したときは、ページの隅に折り目をつけた。
そして家に帰った後、その単語の意味を調べ、折り目はそのままにし、もう一度マンガを見返したときにその単語の意味を自分が覚えていれば、その時に折り目を戻す。もし覚えていなければ折り目はそのままにして、自分がその意味を覚えるまで同じことを繰り返した。
インターネットがない時代、YouTubeなんてものもない。日本のテレビを録画したVHSを貸し出している日本の書店をセント・ポールで見つけた。その店を営んでいた女性は僕がどれだけ日本文化が大好きかを知り、ロンドン在住の日本人が古くて見ないような録画ビデオを僕に売ってくれた。2、3ヶ月古い程度の録画を見るということは僕にとって大した問題ではなく、とにかく「日本」というものを聞いて、この目で見たかった。
テレビ番組はCMも含んでいて、家にいるときはいつもビデオを流しっぱなしにしていた。そうしていると、まるで僕が日本にいるかのように感じさせてくれた。「なるほど・ザ・ワールド」や「世界丸見えテレビ」などのテレビ番組や、「ひとつの屋根の下」などのドラマも観た。また、外出中にもウォークマンで聴けるように番組の音源をカセットテープにダビングし、常に日本語が頭の中で流れるようにしていた。
自力で日本語を勉強する上で、僕は僕自身に宿題を継続的に課し続けた。この写真はA3サイズの紙に書きつくした漢字表で、これを家中の壁に貼り付けた。
学びたい言語を書くということは、それを習得する上で大変重要なことだと感じた。人間は何世紀もの間、書いたり、会話したりするという変わらない方法で言語を学んでいる。インターネットは、15年ほどの間に人々にとって一般的なものとなった。脳は従来の方法で言語を学ぶために発達している。言語が勉強できるウェブサイトは数多く存在するけれども、それに完全に頼りきることはせず、ペンを使って書いたり、喋ったり、体を動かして程よいバランスをとりながら言語を学ぶべきだろう。
何かを記憶しようとするときは、脳にその情報が重要なものか、そうでないかを判断させる必要がある。あまり必要性のないようなものなら、それは潜在意識の奥底へ入れられ、思い出すことは困難になる。
漢字や何か新しい言葉を学ぶために僕が見つけた一番いい方法は、後で見つけやすいように単語や漢字にラベルを貼っておくように、何か記憶するための工夫をすることだ。
たとえば「look」という意味の「見る」を覚えるなら、「Look at this gorgeous Meal!」っていう文を覚えれば、Mealと「見る」は音が似ているから関連付けができて覚えやすい。
いくつかの本は漢字を覚えるための工夫を教えてくれているけど、できるなら自分で考えて工夫をしたほうがいいに決まっている。
この去年撮った写真に写っているのはエンジェルと呼ばれているロンドンの場所だ。一時間も待たされた挙句に20台ものバスが連続で来ることで有名な場所で、いつまで経っても道路工事が終わらないことでも有名だ。
少し自力で日本語を勉強した後、僕は誰かと日本語を話したかった。そこで僕は週一、夕方にこのエンジェルで開かれている日本語のクラスに通うことに。
しばらくして、僕は先生に「人生でしたいことのひとつは日本で暮らし働くことだ」と話したら、先生は日本で外国人がそういうことをするのは無理だから、そのために努力するのは忘れるべきだと言われた。
僕はなぜ日本語の先生が生徒にそんなことを言うのか理解できず完全に混乱し、うろたえた。僕の目標ははっきりしていたから、僕のやる気をそいだり夢をあきらめろなんてことを言う人に従うわけがなかった。僕はそのクラスをやめ、誰かと日本語を話せる違う方法を探し始めた。
僕はこの時まで、ご覧の通りたくさんの日本の雑誌を買い集めていた。2次元の女の子と2次元の女の子のものもバランス良く ^^; 僕は最初はPCエンジンは持っていなかったけど、この雑誌の2次元の女の子が好きだったから買うようになった^^;
はじめに日本語を自分で勉強しようと決めたとき、辞書は使わずに、ゲームの英語名を元にカタカナをどう発音するのか解読しようとしました。
僕はカタカナの「ン」と「ソ」が全く同じに見えてすごく混乱していた。「ファミコン」の読み方もはっきりわかってはいたけど、どうしても僕にはそれが「ファミコソ」に見えてしょうがなかった。
ほとんどの雑誌はジャパンセンターで手に入れた。そこでは3ポンド払えばメッセージを貼れる掲示板があって、
「日本語と英語のランゲージ・エクスチェンジ・パートナー求む!ということを書いて貼った。
僕は英語で話すのでそちらは日本語で話してください。
興味がある人はダニーまで電話ください。番号は123 4567-8910です。」
あの時はこうやって自分の番号をメモの上に書いておくことは特に問題なかったんだ。^^; その後、僕のところに電話がきて、何人かの日本人と友達できた。
ある日この雑誌の表紙をジャパンセンターで見かけたとき僕の心臓は飛び上がった。彼女の名前は西田ひかるといって、僕が人生で見た中で一番かわいい人だった!
彼女のことをもっと知りたくなったんだけど、それはつまりもっともっと日本語を勉強しなければならないということだった。彼女は歌手でもあったので、彼女のCDを全部そろえ自分も歌えるようになろうとした。日本のCDの素晴らしいところは、歌詞カードも付いてくるところだ。
他のアイドルにも気が移って好きになったりもしたけど、西田ひかるに一番夢中になっていた。雑誌の表紙を切り抜いて、A3サイズの紙にコピーしてつなぎ合わせて大きなポスターを作ったりしました。雑誌の表紙をずっと見つめている時にも、書いてある漢字や言葉を全部暗記した。
独学する上で僕は自分にゴールを設けようと思った。僕は日本語能力試験に申し込んで、12月に受ける試験に向けて一年中勉強した。4級に合格して、その次の年には2級に合格した。
この写真は最近撮影したもので、写っているのは全部イギリスに残してきたもの。ここに積み重なっているのは母が僕に買ってくれた日本語勉強用のテープだ。朝の早い時間にこれらのテープがカセットデッキで流れるようにセットしていた。僕は自分の周りのいろんな音が夢の中でも聞こえているということに気づき、浅い眠りの時にテープを聴くと自分を洗脳できるのではないかと思った^^; これが本当に効くかという確証はないけど、日本語を理解するスピードが上がったから、効いたかもしれない^^
ある夕方に、日本語能力検定を受けた後、テストセンターの外でチラシを配っている日本人男性2人がいた。そのチラシの内容とはロンドンのウェストエンドで開かれているランゲージ・エクスチェンジ・クラブについてのことだった。興味深くウェストエンドに向かって、そのクラブに入るとこんな光景を見た。現地の人と日本人が会話し合ったり。
そのクラブはで2人の会計士をしている日本人女性とイギリス人の夫婦によって運営されていた。彼らはこのオフィスを持っていたけど仕事には全てのスペースは必要なかったので、余ったスペースで「アクセル」というランゲージ・エクスチェンジ・クラブを開くことにしたようだ。週に2、3ポンドというとても安い値段で参加できた。写真の中心に写っているのが僕だ。
アクセルには日本語の電子ワープロが置いてあった。 僕はそのワープロを使って自分用に漢字表を作成したり、印刷したものを家中の壁に貼り付けたりしました。
ラミ加工して持ち運びできるように小さいやつも作った。漢字表の上に「西田ひかるちゃんの恋人」が^^;
さらにこの形容詞の表も作って、バスや電車を待っている間も読むために印刷して持ち歩いていた。うちのトイレの壁にも貼ってあって、おしっこやうんちしている時でも日本語の勉強ができた。
アクセルでは友達がたくさんできて、彼らとクラブ以外でも頻繁に集まっておしゃべりしたり、一緒にディナーに行ったりした。
言語は文化に基づき、より文化を理解すれば、言語も理解するようになる。ネイティブ・スピーカーと話すことによって、よりその文化を深く理解し、同様にその言語をより早く理解するようになる。
この時SMAPのみたいになりたくて髪を茶髪にした^^; 日本の雑誌をスキャンして自分用のTシャツも作ったりした。
僕のこの時の日本人の友達はそれまで知り合った中では最高の友達だった。僕の家でスナックをつまみながらカラオケをすることも結構あった。
この頃まで、アニメとマンガに対して燃えるような情熱を抱いていて、これらに関連する何らかの仕事につきたかった。当時イギリスにはManga Entertainmentという会社があって、「攻殻機動隊」や「プロジェクトA子」などのアニメを販売していた。その会社の社長にコンタクトを取って、マンガやアニメ、日本語に対する僕の情熱を伝えてあげた。
社長はこの写真に写っている「マンガジン」というファンクラブの雑誌を創刊することを決め、僕は編集者の一人として執筆することになった。
マンガジンに送られてきたVHSだ。僕はイギリスで発売される前のこれらのアニメを見て、レビューを書いたりした。僕の日本語はこの時点ではまだいまいちだったけど、むしろそれはもっと勉強に励むためのいいきっかけを与えてくれていた。雑誌の仕事のギャラはなかったものの、勉強のための経験というのはお金に換えがたいものだ。
どうやってお金を稼いだのか
これはハックニーのドルストンにある「メトロピリタン」という建物だ。スタジオに改造された病院だった。父親はこのメトロピリタンで事業を拡大しようとスタジオを借りた。
父が僕のためにしてくれたことで一番よかったのは、自分で努力し、自分で稼ぐということをさせてくれたことだ。お金が欲しいのであれば、自分で稼がないといけない。そこで父親のスタジオでバイトすることにした。
去年撮った写真だ。
父の元で働いている間、僕は靴のデザインと製造工程に関する全てのことを学んだ。デザインして、型を切り取って、縫い合わせて、最後の甲皮までの仕上げ作業も出来るようになった。
ElleやVogueなどのファッション誌と一緒に仕事したりもして、たくさんのファッションショーにも参加した。仕事も面白かったけど、自分が人生でやりたいのはこれじゃないということは分かっていた。
アニメやゲーム、日本の文化がますます好きになり、ジャパニーズドリームを掴みたいと強く思うようになった。しかし、このバイトではジャパニーズドリームは掴めないので、父親のスタジオを後にした。母親と一緒に住んでいたので、数年間は父と会わなかった。
最近作った靴はブラックロックシューターのサンダルだ。「ブラックロックシューズ」だ^^;
もう父のスタジオでバイトしないということは収入がなくなった。
僕はリチャード・スタノウスキというタレント事務所と契約し、アジア系の人が必要なときに呼ばれ、テレビドラマやCM、ドキュメンタリーに出演した。どの仕事でも目立ったりはしなかったが給料はなかなか良かった。
この写真は「レッツ・オシャベリ」という発行物で、イギリス国内の日本人家庭のために基礎的な英語のフレーズを教えてくれるものだ。僕はこれの発行元で、英語から日本語に訳すアルバイトを見つけた。
この頃では、Elephant and Castleにあったカレージに通い、ビジネスコースをとっていた。ここの授業料は補助金で賄われていた。
僕は「紅花」という日本レストランでのアルバイト始めた。ホールを走り回ってオーダーをとり、料理を出すウェイターとして。紅花を選んだのは、たくさんの日本人客と日本語が話せたからだ。ためたお金で日本へのチケットも買いたかった。
そしてついに、日本が自分の目で見れる日がやって来た。相当感動しました。電車が成田を出発し、いくつかの小さな町を通り過ぎていくにつれ、僕の心は高鳴っていった。 カタカナ、ひらがな、漢字があっちこっちに。
滞在中のほぼ全ての日を思い出せるほどに、僕にとってこの旅はとても感動的な時間だった。コンビニのドアの感触、天ぷらの味、じめじめした夏の熱気の匂い、あちこちから聞こえる日本語、僕の全ての感覚がオーバーロードした。
これは渋谷に座ってハチ公前交差点を一日中眺めながら、この雑踏の音と会話を聞きながらここに住めたらなぁと夢見ているときの写真。
日本で過ごした時間をどうにか保存したかった。当時のビデオカメラはとっても買えないし。ということでミニディスクとマイクを買い、渋谷の音を録音しました。
人生の初めての目標 : ジャパニーズドリーム
イギリスに戻った後、部屋の周りにスピーカーをセットし、渋谷で録音した音源を流し、目を閉じた。その瞬間に渋谷に戻った気分になった。
紅花で十分なお金を稼ぐまで、もう一年日本にいることはできないということは知っていた。けれど渋谷の音を聞いているととてもやる気が上がり、日本語を勉強している間、いつもその音を流していた。
この写真に写っているのは僕の最初の机で、壊れたスピーカーにグラス一枚。この時点で僕は何度か日本に行っていた。日本に住み、働くことは実現させないといけない夢だ。壁に貼ってある新宿の黄昏のポスターを見ては、毎日繰り返し自分にこう言い続けていた。
「絶対に僕は日本に行く」
「絶対に僕は日本に行く」
「僕は日本に行くんだ」
キッチンの壁には僕が日本で撮った写真に囲まれて何枚か西田ひかるの写真も貼ってある。家にいるときはなるべくどこ見ても日本の物が目に入るようにした。
キッチンでのもう一枚の写真。壁に掛かっているポスターは広島の黄昏。その下にあるのは作った漢字表の一枚。
日本でのある日、西田ひかるのコンサートの列で待っていると、近くにいた男性に声をかけて自己紹介することにした。彼も僕と同じく西田ひかるのファンなので、話すことがいっぱいあった。その人といい友達になり、彼も自分の友達を紹介してくれた。好きなことで沢山の友達と繋げるのは嬉しいことですね。
そしてなんと、その人と10年後はアマゾン時代でばったり会った。
日本で買った戦利品。全ては日本語を勉強ための本やゲームだ。本当です。
僕は西田ひかるのことがとっても好きだった。このイラストでは僕と彼女が僕が覚えている東京の街風景で抱き合っているwww。
ひかるに会うことは僕のもうひとつの夢でもあった。とある日の夜、花束を持って新宿の厚生年金会館の外で彼女のコンサートが終わるのを待った。僕はローラーブレードを履いていて、でてきた彼女の車を追いかけて信号で止まったところで追いつき、花束を渡そうと計画した。
でも会館にいたスタッフ等は僕のことに気づき、彼女の車が出てくる直前に彼等に殴られ、車が完全に去るまで僕を地面に押さえつけていた。
ひかるの車が去ってしまってから、スタッフは僕を道の真ん中に放置し、殴られ蹴られた僕はでクラクラしながら立ち上がった。花束はなんとか大丈夫だったので、花束を拾い、ひかるの車が走っていった方向へローラーブレードで追い駆けた。運命よく、彼女の車は信号で足止めされていた。ひかるさんは窓を開け、申し訳なさそうに僕の花束を受け取ってくれた。スタッフが僕を押さえつけたのは彼女の意思ではないと思う。少なくとも僕はそう思いたいな。^^;
僕は次の年、同じ時間の同じ場所で同じことをしようと、この時はあまり目立たないようにうまく隠れていた。不幸なことにこの時は運命は味方してくれず、交通信号ずっっっと青のまま。自分の肺が破裂しそうになるまで、新宿の道のど真ん中を、花束を持ちながら彼女の車を追いかけたのを憶えている。喘息で死にそうだった。
パチンコ屋の前で座り込み泣いていた。一人の女性が僕のところにやってきて大丈夫かと聞いてくる。僕は大丈夫だと彼女に伝え、「よかったらこの花どうぞ」と。この写真はその時に撮った。
日本で働くことに近づくためのステップとして、日本語を大学で勉強する必要があると感じた。これまで独学で勉強してきたが、僕の日本語は話し言葉に過ぎなかったので、大学で自分の日本語能力を磨き上げずには日本社会で成功することはできないと思った。
ロンドン大学の学士課程に入学した。4年間のコースだったけど、編入試験を受かり、直接2年生に入学した。僕は同時に韓国語のクラスもとっていた。
これは当時の宿題。
妻とどこでどのように出逢ったのか
大学に通っている間のほとんどは、紅花でアルバイトしていた。月曜から金曜、休日の多くも働いていて、まるで社員のような感覚だった。17時から深夜までが殆どだった。宿題をする時間も取らなくてはいけなかったので、他のスタッフと日本語を話せる場でもあるスタッフの食事の時間にいつも宿題をやっていた。
紅花は僕が妻と出会った場所でもある。彼女もそこでウェイトレスとして働いていた。もし僕が日本文化に興味がなければ、僕は多分日本レストランで働いてはいなかっただろうし、彼女にも出会っていなかっただろう。
両親は、僕に広東語で話していたけど、幼い頃に中国語学校に行く機会がなくて、中国語の読み書きの勉強もしなかった。妻と出会った後、彼女の家族とコミュニケーションをとれるように中国語を勉強したいと思い、この写真のような中国語を勉強するための日本語のテキストを使って独学で勉強した。
結婚する前、妻と僕は一緒に暮らすことにした。これはEarls Courtにある僕らが住んだ借りアパートだ。アパートはとても狭くて、ふとんをしけばスペースが殆どなくなってしまう。
この部屋に虫が住み着いていて、僕をずっと刺した。大家はそれに対してなにもしようとはせず、契約は一年だけにとどまった。結局、僕らは別の床板を買って、虫だらけの床を覆い隠した。
右は僕らのキッチンで、洗濯もここの流し台でやった。左がシャワー室。ここは狭くて窮屈だけど、大事なのは一緒に住めることだった *^^*
昼は大学の授業を受け、夜は妻に紅花で会った。僕らは深夜まで働いて、自転車をこぐ彼女のあとを僕がローラーブレードで追う感じで、一緒に家に帰った。
Earls Courtに一年ぐらい住んだあと、僕らはもっと安いところに引っ越すことにした。ロンドンのWhite Chapelに友達の家をひと部屋借りた。キッチン、風呂、トイレは共同。
家賃安かったので、写真に写っている後ろにあるパソコンを買うためのローンを組むことができた。1600ポンドくらいかかった!4GBハードディスクのWindows95と56K(256Kだったかな?忘れた)のダイアルアップモデムを手に入れた。僕はこのパソコンで自分のパソコンスキルを身につけた。
パソコンで日本語を使いたかったけど、多言語機能はなかった。ハードディスクをFDiskで分け、英語と日本語のウィンドウズが使えるようにImage Magickをインストールしたり、パソコンのいろんな方面を独学し始めた。
まだ大学にいた頃に、僕は紅花のバイトを辞め、Oxford Circus付近にある「イケダ」というレストランでアルバイトすることにした。
イケダを辞めたら、日本航空のバイトを見つかった。そのバイトではロンドン空港で日本人観光客を案内したりしました。
そして大学を卒業した。イギリス全国の10%の大学生しかとれない「1st Class」をなんとかとれた。嬉しかったよ。以前は学校で落ちこぼれになりそうなのだが、パッションを感じる科目を勉強するといい成績はとれるはず。
日本航空時代 : 初めてサラリーマンになった
卒業後、日本航空は正社員になりませんかと誘ってくれた。面接に合格し、日本航空のコンピュターエンジニアとして働くことに。
これはロンドンのHammersmithにある日本航空の事務所で撮った写真。左下にある机が僕とこだ。
日本航空での僕の仕事はヨーロッパ圏の日本航空の予約システムを管理することだった。仕事の空き時間の間、HTMLを勉強して会社のイントラネットを作り始めた。グラフィックソフトの使い方も勉強し始めた。
この写真ではイタリアに2,3日滞在して日本航空の端末をメンテナンスしているときに撮ったものだ。見てのとおりかなりレトロな端子だ。そのうちいくつかは何年も使われていて黒い電気すすにまみれていた。中を開けるのはかなり危険でゴム手袋を身につけなければならないほどだった。
どうやって日本に辿り着いたのか
僕は日本航空での仕事に満足していた。これが初めての仕事で、しかも日本の会社だった。スタッフの何人かは日本人で、僕はたくさん日本語を話す機会があった。
それでも僕は日本に居るわけではなく、日出づる国に住んで働くというジャパニーズ・ドリームを僕は決して忘れていなかった。
ネットで仕事を探すことになり、東京を拠点とする仕事で、内容は「東南アジアでのウェブマーケティング。日本語/中国語が使えてインターネットができるネイティブの英語話者求む」というのを見つかった。
インターネットなら少しできる!と、すぐにその仕事に応募した。
2,3日後、面接に呼ばれた。その面接をするのはネイチャージャパンのボスであるデイヴィッド・スウィンバンクスだ。面接では日本語の科学記事を読むという課題も含まれていた。^^; デイヴィッドは韓国語も話せる人が見つかるとは思っていなかったようで、僕にとってはかなり運のいいことだった。
最初の面接の後、僕は家に帰り、このような「ネイチャー韓国」のウェブサイトのモックアップを夜通しで作った。当時、ネイチャーは韓国のサイトがなく、面接中にネイチャーにとって韓国向けのサイトはどれだけ重要なのかを話していた。
できたモックアップのJPGをフロッピーに保存し、スクリーンショットを印刷して、デイヴィッドが泊まっているホテルに行って、資料を彼の部屋のドアの下に置いた。
その夜、人材派遣会社から電話があって、デイヴィッドがもう一度会いたいと言われた。彼は僕の届けものに喜んでいたらしい。デイヴィットに再び会い、東京にあるネイチャージャパン本社で面接とテストを一週間の間に受けてくれと言われた。
東京に向かい、市ヶ谷にあるネイチャーの事務所に一週間行っていました。科学論文の翻訳チェック、売り上げ予測などのテストを受けていた。あんまり出来なかったが一生懸命やりました。
幸いなことに、デイヴィッドは「既に出来る」ひとよりもむしろ挑戦する意欲のある人を探していたようだった。
試験と面接が詰まった一週間の終わりが訪れ、僕はデイヴィッドの机の前に座っていた。「東京に来てくれてありがとう。君がイギリスに帰ったあとに結果を伝えるよ。」
デイビッドに「心配で飛行機で死ぬかもしれないので、僕がイギリスに帰る前に教えて頂ければ幸いです^^;」と彼に言った。
デイヴィッドは笑い、週末明けに電話すると言ってくれた。
できることは完全やった。こういうチャンスのために僕は2,3年前から日本語だけでなくパソコン技術も勉強してきた。僕はこの機会を得て、自分のベストを尽くした。僕は日本にいなきゃいけなかったんだ。
その夜僕は、疲れ果て、泣きつくして眠りについたww
雨の日曜日の朝、ホテルの電話が鳴った。デイヴィッドだった。
片道のチケット
その電話の結果では、1999年7月、僕と妻は友人の家からの荷物をまとめて日本行きの片道航空券を受け取った。夢が叶った。僕は日出ずる国で働き、暮らしに行くのだ。過去何年の苦労が報われた。情熱を発見し、生きていけば結果は自ずとついてくる……いつだってそうだ。絶対にあきらめない。自分自身に壁を作ってはいけない、そして特に他人が自分に対してその道を遮るような壁に自分を止めさせてはいけない。自分の心に耳を傾け、ひたすら前に進め。
必要なものはすべて整った。新しい人生始まるために銀行にお金は少しためてあった。あとやり残したことといえば父にお別れを言うことくらいだ。
日本に引っ越す直前に撮った、父と彼の奥さんと妹だの写真だ。妹はいまサンフランシスコに住み、インテリアデザインを勉強している。
父親のビジネスを継ぐ意思は全くありません。僕は現在日本で幸せな日々を送り、自分の会社も持っている。2次元の子と関わらない仕事なんて考えられない!僕の会社は最近儲かるようになり、生活に支障はない。
財産が残されても、お金は学校を建てたり、世の中の不幸な子供達に役立つことに使いたい。
キャリアをどのように日本でスタートしたのか
ネイチャージャパンで仕事中。当時はMacを使っていたんだけど、それがとてもいやだった!僕はマーケティング調査をして、購読契約処理、ポータルサイトの制作、翻訳のチェックなどの業務していました。
初めて住んだところは東京の東伏見にある小さなアパートだった。それほど広い場所ではなく、押入れの棚をこんな風に机みたいにして使っていた。
日本に引っ越してから一年後、dannychoo.comというドメインを立ち上げ、独学していたMYSQLやHTML、CSSなどのスキルの実験場にしました。
ぬるま湯に浸かれると危険
さて、「安全地帯」について少し触れておきたいと思います。英語では僕は「Safety Zone」と言います。
「安全地帯」とは人が自身の状況に満足している状態であり、日本語だと「ぬるま湯に浸かれる」の表現と同じ意味だと思います。
ネイチャージャパンは働く場所としては最高だった。いろんな社会勉強ができ、日本語のレベルアップもでき、会社にも色んな面で貢献することで、やりがいのある仕事と感じた。
しかしあるとき自分が最も危険すべき状況である「安全地帯に陥ってしまったことに気がつき始めた。
人間が基本的に必要な条件は、「食」と「住」。快適な場所に居るということはこれらの条件を満たしていることになる。自らの情熱を追及したいと思っていても、これらの条件を失うということにつながるリスクが存在する故に、安全地帯を抜け出すことなく、そこに落ち着いてしまう人は世の中にはたくさんいる。
人間の行動の原動力は「必要性」だ。もしそこに必要性が無ければ行動をおこすことはほとんど無い。人が生きていくうえで、必要不可欠な条件が満たされれば、他に必要なものは基本的に何も無いのである。
でも、安全地帯の中にいるということに気がつくことは良いスタートであり、僕が安全地帯からから抜け出し、東京中のリクルーターを訪ね回るきっかけになった。
この安全地帯から飛び出すことが、続く2、3ヶ月の間で僕の人生を大きくに変えることになった。
新たに仕事探しをしている間、ジョブドラゴンというリクルートサイトを見つけた。そこで僕が探していた分野の仕事を選び、履歴書を投稿した。そしてそのジョブドラゴンのボスであるマークさんから会って話がしたいとの電話があった。いざ、そのミーティングに行ってみると、マークが僕のウェブサイトをプリントアウトしたものを持っていたことに僕は驚かされた。「これは本当に君がやったの?」と、マークはデザインのことを聞いていた。上のスクリーンショットが、そのマークがプリントアウトしていた物。すごく恥ずかしかった!
青い物体は全部3D Maxで作られたもので、レイアウトはDreamweaverで作りました。マークとの出会いのきっかけで、オンラインプロフィールを持つことがいかに重要なことかを学んだ。この時から、僕のオンラインプロフィールは僕がキャリアを積み上げていく上で不可欠な存在で、皆さんにも自分のオンラインプロフィールを作成することを強くオススメする。それがただのLinkedinのアカウントだとしてもだ。
ジョブドラゴンのCTOのニックさんが登場し彼らの元で働く可能性をお互いに探った。携帯サイトがあればジョブドラゴンのサービスを利用するユーザー増えるだろうと提案した。
1999年から2001年まで、妻と僕はお金を節約するため携帯を持たないことにしましたが、ジョブドラゴンの携帯サイトを作るために携帯を買わないといけなかった。しかしこれはジョブドラゴンに言われたことではなく、自分は携帯サイトが作れるという証拠を見せたかった。これは同時に作った僕のサイトの携帯版だった。
ニックさんは僕が作ったジョブドラゴンの携帯サイトを気に入ってくれたようだが、更なるテストを行うまでは納得しなかった。彼は僕にHTMLとDreamweaverでのテストをするサイトのリンクを送ってきた。どちらのテストも通過し、その後僕はジョブドラゴンのコンテンツプロデューサーとして正式に採用された。
僕のことを信じ、日本へ連れて来てくれたデイビッドに辞表を手渡さなければならないのはとても辛かった。マーケティングに関して僕は何も経験が無かったが、デイビッドは僕の可能性を見出していた。
この写真は表参道にあるジョブドラゴンのオフィスの僕の机で撮られたものだ。
ジョブドラゴンに入社して大体3ヶ月後、会社運営が厳しくなり、僕とその他数人を解雇しなければならなくなった。初めての解雇経験だった。ボスのマークさんはそのニュースを伝えるために僕を含めた3人を部屋に呼んだ。マークさんが泣きはじめ、僕もとてもショックを受けた。結果、ジョブドラゴンで働き出して2,3ヵ月後に解雇されるためだけに僕はネイチャージャパンでの安定した仕事を手放したことになる。
でも、人生において起こる全ての事には理由がある。全ての出来事は、その人が人世という度の旅の中で集めていくジグソーパズルのピースだ。
ジョブドラゴンはレクルート会社だったので、業界でたくさんコネクションがあり、僕らをそのままほったらかしにするようなことはしなかった。
僕の履歴書はイーベイジャパン(ebay)やアマゾンジャパン(amazon)などの会社に送られた。たくさん面接を受けたら4つ同時にオファーが来てしまった^^; アマゾンの渋谷オフィスで何度か面接を受け、電話でシアトル本社のいろいろなプログラムマネジャーと話をした。面接を繰り返した結果、上司のアンさん(Anne)が僕がふさわしい人物かどうかを確認するために日本へやってきた。
これがその面接で尋ねられた質問だ。あなたならどう答えるだろう。正解不正解アリで、技術的なことは答えなくても良い。面接を受けている最中であるというだけで、他の人が期待するような答え方はしない。どう答えるだろう?
あなたは現在あるサイトの機能拡張に取り組んでいます。あなたのスタッフは全員それに取り組んでいます。あるビジネスオーナーが(それはマーケティングだったとします)数百万円の売り上げにつながる数千のユーザーの増加を期待できるようなウェブサイトの機能を至急立ち上げるようにあなたに伝えます。あなたはどうしますか?
そのとき以来、僕がアマゾンで面接した人たち全てに同じ質問を使うようになった ^^;
イーベイとアマゾンが僕の採用を決定した後、僕のリクルーターはその両社に物に入札するような競争をさせた。リクルーターが僕年俸のおよそ30%の手数料をもらうことになるので、なるべく多く出してもらうことにした。最終的にはイーベイがより良い条件を示してきたが、僕はアマゾンを選ぶことにした。オークションよりはe-コマースのほうに馴染みがあったからだ。
ジョブドラゴンは僕を雇って、解雇して、新しい場所を用意してくれた。彼らが僕をアマゾンに紹介した上で得たその30%は僕がジョブドラゴンで働いていた3ヶ月の給料より多かった。
アマゾン時代
ジョブドラゴンのレクルート担当ラスティーさんが僕に「お前はアマゾンのウェブサイトマネジャーになってもらうぞ」と言われた時は、あんまりにも大きい仕事だったので、ラスティーのことだったから、彼の言ったこと信じなかった^^;
ネイチャージャパンを去って数ヶ月後、僕はアマゾンのマネジメントチームのメンバーとなり、アマゾンジャパンのトップであるジャスパー・チェンと共に会社を運営していた。僕はウェブサイトプロダクションを全面的に担当することになり、僕を手伝ってくれる30人のすばらしい部下達を持っていた。
2,3ヶ月前は安全地帯にいた僕だが、世界でも最大のウェブサイトの一つを任され、アマゾンのたくさんの株ももらって、 気がついたらネイチャージャパンでの給料の3倍を稼いでいる自分がいた。
その新たな環境は大きな挑戦だった。アマゾンの技術は驚くべきもので、僕は完全に疎外感を感じていた。僕は人を管理することに向いていると分かるようになり、ベンダーマネージメント、バイヤー、マーチャンダイジング、ファイナンス、リーガル、リテール、マーケティング、ウェブサービス、広報、人事、サプライチェーン / オペレーション、ITなど、たくさんの部門と共に仕事をしていく上で新しい日本の言葉を学び始めた。
僕がアマゾン時代で撮った写真はこの記事で見られます。
給料が上がったことで、もうちょいましなとこを借りることが出来た。しかし生憎欠陥マンション当たってしまったToT
ご覧の通り当時はWindows派だった。この時点で僕はガンダムに影響を受け始め、何個かガンプラを組み立てた。
どのようにアフィリエイト収入を稼いだのか
2003年、アマゾンはAmazon Web Service (AWS、アマゾンウェブサービス)を立ち上げた。どんなディベロッパーでもXML形式でアマゾンのカタログデータにアクセスできるAPIだ。AWSで誰でもアマゾンのカタログデーターでオンラインショップを構築することができる。
僕は日本でそのサービスを立ち上げるために、シアトルのAWSチームと一緒に取り組んだ。このスクリーンショットは僕が構築した「ミツカッタ.COM」というAWSサイトだ。アマゾンのカタログデーターを利用し、アマゾンの商品を引っ張って表示している。
アマゾンの偉い人たちはこのサイトを大変気に入ってもらい、日本でそのサービスが公式に立ち上がったときの記者会見で例として使うことを決定した。そのサービスはまだ若かったし、更に良くするためにもっとAWSに携わりたかった。
サーバーサイドキャッシングやSEOなどのようなことを学びだした。僕はアフィリエイトタグを使うことはアマゾンに許された。もし誰かがサイト上のリンクを通して製品を購入した場合、アマゾンから手数料がもらえるということ。
始めは月に6000円ぐらいの電話代を払うお金を稼ぐことができればいいと思っていた。ミツカッタ.COMを最適化するのに必要な情報はグーグル先生から学び始め、学ぶほどより多く稼げるようになっていった。僕はこれらの学んだことをアマゾンにフィードバックし、毎月の電話代を払うどころか、想像していたより更に多く稼げるようになった。
このスクリーンショットでは2800万円という数字が、たった数週間で僕がアマゾンに貢献した売り上げ額だ。そのお礼として、アマゾンから1,857,732円の紹介料を頂いた。
もしこんなウェブサイトをもっと作れば、お金はもっと入る計算となるだろうと思い、大体30個くらいの全て異なったデザインのサイトを作った。
なぜシアトルに引っ越したのか
アマゾンウェブサービスはもともと外部向けのサービスだったのだが、内部でも使えることに気づき始め、AWSで運用されるアマゾンサイトのプロトタイプを僕一人で週末の間に作り始めた。普通ならたくさんのスタッフがいても数ヶ月かかるようなことが今一人のディベロッパーが数日間でできるようになっていた。作ったプロトタイプは社内のたくさんの技術者たちの目を開かせるものになった。それはAWSがいかに強力なものであるかを証明するものだった。
ジェフ・ベゾス(アマゾンのCEO)の部下であるディエゴ・ピーセンティーニ氏は僕が作ったプロトタイプを評価し、彼の下でシアトルで働かないかというオファーを受けた。僕はそのオファーを受け、2004年7月にシアトルへと引っ越した。日本のことは大好きだったけれど、妻と僕はこの機会はキャリアに重要な選択と思っていた。
この写真はシアトルのアマゾン本社の外で撮った。
アマゾン本社での仕事は気に入ってはいたが、なかなかシアトルでの生活にはなじめなかった。アメリカの生活になじむようとしましたが、やっぱり僕には合わなかった。時間が止まってしまったようだった。おそらく僕には東京の活気のあるペースに慣れてしまっていたのだろう。
僕がシアトルの生活になじめなかった最大の要因は日本を去るまで日出ずる国を僕がいかに愛していたかに気がつかなかったことだ。シアトルでもずっと日本のテレビ番組を見ていたことを覚えている。ロスト・イン・トランスレーションも何度も何度も見ていた。日本に帰りたかった。
次は何をしようか考えながら長い月日が経った頃、辞表を提出して妻と日本へ帰る準備をしていた。とても辛い決断だった。それは僕たちが日本へ戻るためにここまで上り詰めた地位を捨てるということを意味した。それでも、人生、金銭的に快適になることが全てではない、情熱のままに生きることだ。僕はそれをシアトルで実現できなかった。
イギリス、日本、アメリカ、そしてまた日本、と動き回ることを妻はどう思うだろう? 彼女の答えはいつも同じだ。ずっと一緒ならどこに住んでいようと関係ない、と。もう14年も共に生きてきた。妻は中国、日本、イギリス、アメリカと僕より多くの国で生活してきた。
この写真はちょうどアメリカを去る前に撮ったもの。もし僕らがアメリカにいるのは半年だけということをわかっていたらもっとアメリカを見回っていたと思う。後悔しているのはアメリカにいたときの生活を記録しておかなかったことだ。写真もあんまり撮っていないし。今はこうしてブログで定期的に写真を撮って一週間の東京シリーズで僕らの人生の記録をとっている。
僕はディエゴさんに日本に戻りたいということを伝え、そして彼を失望させてしまったことを謝った。僕は辞表を彼に手渡した後、日本に戻る準備をするつもりだった。ディエゴさんは僕に会社に残って欲しいと言い、アマゾンは僕らの旅路の面倒を見てくれるとのことだった。
日本での僕の新たな責任はアマゾンが買収した中国の通販サイトJoyo.comのウェブサイトマネージャーだった。これはJoyo.comのスタッフと一緒に撮った写真だ。
2004年、僕がまだシアトルにいた頃、このサイトのブログ機能を追加した。その頃は主にガンダムやフィギュア、日本での生活についての記事を書いていた。
アマゾンのアフィリエート収入で一戸建てを目黒で買うことが出来た。娘のあおいちゃんがこの記事でうちを紹介している。
副業は今の会社の始まり
まだ社員だった頃には口コミでの依頼を受け、副業でウェブサイトを作り始めた。インドやルマニアの現地のデベロッパーをリモートでサイトを作ってもらったりした。個人事業を開業しその屋号を「MIRAI」にした。理由は、この個人事業は僕の未来の始まりだったからだ。
マイクロソフト
2005年、僕はアマゾンを辞め、マイクロソフトジャパンに入社した。担当していたのはCGMサービスのいろいろ。
2007年にマイクロソフトを辞め、MIRAI株式会社を設立した。当時は妻と二人会社だった。これは当時のオフィスの写真。
病気と友に生きる
生きている限り、人は誰でも病気に遭遇する。これらの病気のうちいくつかはただの風邪みたいに来ては過ぎ去っていくものだけど、何人かの人はこういう病気にも一生付き合っていかなければならない。そしてさらに何人かの人は病気を患って生まれてくる。
僕の喘息が生まれつきなのかどうかはわからないが(両親は喘息だった) 、子供の頃は吸入器を持ち歩いていた。最近はめったに吸入器を使うことはないけど。生まれつきのものではなかったけどその病気は2008年に脊髄ヘルニアだと診断された。
背中の下の辺りの椎間板の一部が破損して、脊髄から通っている神経に刺さっていた。これは足に痛みを引き起こす。痛みは現れては消えたりしいていたが、一度ひどい痛みが襲ってきたことがあった。脊髄の椎間板は磨り減っていくものだが、どうやら僕のはすでにやばくなっていた^^; このMRI画像を見て分かるように、白くあるべき椎間板のほとんどが暗くなっている。椎間板が磨り減っていくと、脊髄はひどい場合だと歩けなくなるくらいの痛みをもたらすくらいに影響され始める。
その病気だと診断されたとき僕は途方にくれ、いつか歩けなくなるんじゃないかという予測に憂鬱になったことを憶えている。でもしばらく考えたあと、僕は最終的に車イスを使うようになるまでできるだけ一生懸命生き、働き、遊び続けるようと決めた。もし自分に限られた時間しか残されていないのなら、憂鬱になるのに時間を費やすより、 僕はむしろ楽しみたい。
僕は楽天的であり続け、全ての脊髄ヘルニアが歩けなくなるほど悪化するわけではなく、同じ病気にかかった多くの人がリハビリの後痛みを感じなくなったことを知った。僕のリハビリはうまく効きそうにはないようだけど、痛みとともに生きていくことを身につければ特に憂鬱になるほどのことでもない。くしゃみは死にそうなくらいやばいけどね!
まぁ傷ついた舵で船を帆走しているようなものだと思う。今のところ船は大丈夫なようだ。
日本の文化をブログで世界の皆さんと共有し続けることにより、ユーザーが世界中に増えました。海外の方が特に好きなのは、僕が書いている「一週間の東京」、「日本の見所」と「指南」のシリーズだ。そのうちに世界各地からの講演オファーも受けました。これはドイツのカンファレンスで「オタク」や「CGM」について講演しているところ。
なぜか僕が撮っている日本とポップカルチャーの写真が世界中に評価され、ニコンのCMにも出ちゃった。僕ボタン押しているだけなのに ><
MIRAIがやっていること
これはスタッフのクリスだ。MIRAIでは日本の文化を世界に発信するのが仕事だ。現在のクライエントでは、グッドスマイルカンパニー、ブシロード、電通、日本経産省、キングレコード、角川書店、アスキー・メディアワークスなどがいます。ウェブやマーケティングの手伝い、講演やイベントの手配などなど。他にやっていることは僕のプロフィールページでリストアップしています。
あ、そういえば、うちのマスコットキャラ末永みらいちゃんにもちょい力入れている^^
今の仕事での一番嬉しいことは、世界中のいろんな人たちと出逢えることだ。これは去年のアニメイベントANIME EXPOで撮った皆さんとの集合写真だ。世界各地のアニメイベントに行って日本の文化を皆さんとシェアしています。また僕のTwitterやFacebookを通して沢山の出逢いが世界中にできて嬉しい(涙)。
日本文化はアニメを通して何気なく皆さんは知っているなのだが、日本のことをもっともっと知ってもらいたい。
日本の文化を海外に発信し続ける僕は日本経産省の招待で茂木健一郎氏や秋元康氏といった凄い方達と同じカンファレンスで講演できたことをとっても光栄に思いました。嬉しかったよ^^
映像を使って日本の文化を世界に発信したくて、自分のテレビ番組をプロデュースする機会に巡り会った。カルチャージャパンは国内だけではなく、アジア全土、アメリカ全国にも放送しています。世界中にも放送できるように頑張っています!第一期の総集編はYouTubeにアップし、短いトレーラーは下で見られます。
まだ第一日目
しかし今日はまだまだ第一日目だ。見習い社長である僕は世界を変える目標は遠く感じていますが、一生懸命走り続けなければその夢は実現できない。僕の人生を変えてくれた日本の文化の素晴らしさを世界の隅々まで浸透させて行きたい。死ぬまで。